【特別寄稿】香港の不満に満ち溢れた夏 2.0

ロボティア編集部2020年5月31日(日曜日)

中国の全国人民代表大会(全人代=国会)は最終日の5月28日、香港の反体制活動を禁じる「国家安全法」を導入する方針を採択して閉幕した。同法が施行されれば、中国が治安維持などを担当する出先機関を香港に設置して香港市民を直接取り締まることが可能となる。

法案は今後、全人代の常設機関である常務委員会が、中国本土の国家安全法を基に法案化の手続きを進める。法案の成立は確実で8月までには施行される見通しだ。全人代閉幕後の記者会見で、李克強首相は今回の採択を「一国二制度を確保して香港の長期繁栄を守る」と述べたが、中国政府が同法に基づいて、香港の民主派を取り締まるようになれば、これまで自由を謳歌してきた香港の言論の自由も中国本土並みに制限されるようになることは必至で、香港に高度な自治を認めてきた「一国二制度」は形骸化する。民主派はこれに反発し、2019年から続くデモなどの抗議活動を再び活性化しているが一連の抗議活動に昨年の勢いはない。

 中央政府によるトップダウンの介入は敵対する香港の民主派には明確なリスクをもたらすが、国際ビジネスコミュニティへの影響ははっきりとしておらず、今後のトランプ政権の出方次第だ。その点を意識してか、李克強首相は会見で「(米中は)広範囲にわたる利益がある」と香港の関税優遇見直しなど制裁措置も検討する米側をけん制した。

■なぜ今「国家安全法」を導入するのか

香港の事実上の憲法である香港特別行政区基本法(基本法)の第23条は、「香港特別行政区は国家に対する反逆、国家分裂、反乱の煽動、中央人民政府の転覆、国家機密搾取のいかなる行為も禁止し、外国の政治組織・団体の香港特別行政区における政治活動を禁止し、香港特別行政区の政治組織・団体が外国の政治組織・団体と連携することを禁止する法律を自ら制定しなければならない」と定めており、香港自らが国家安全法を制定することを義務づける。

ゆえに、法案はその立法機関である香港特別行政区立法会(香港立法会)によって承認されなければならない。しかし、香港政府の制定に向けた努力は50万人の香港市民が前例のない「週末の平和的な抗議集会」で街中を埋め尽くした2003年以来頓挫している。憲法上の責任をあからさまに否定することには留意しつつ、中国政府は香港の政治的指導者や大物実業家に対して規則に従うよう水面下で圧力をかけながら2つの経済の統合を促進しようとするなど、香港に対して長期にわたり戦略的政治工作を継続してきた。

しかし、昨年2019年の林鄭月娥(キャリー・ラム)香港特別行政区行政長官による、犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを可能にする、「逃亡犯条例」の導入が引き金となった一連の抗議運動と、香港の自治権がさらに損なわれることを懸念し、法律の導入を阻止しようとする民主派による香港立法会での議事進行妨害行為に中国政府の怒りは頂点に達した。

2012年に中国共産党の総書記に就任した習近平の元、中国政府は香港が中国本土と足並みを揃えようとしない態度に苛立ちを募らせていた。最終的には失敗に終わったが、真の普通選挙実施を求めて行われた2014年の「雨傘運動」は香港の機能を数か月もの間、まひ状態に陥れ、逆に香港を自らの支配下に治めようとする中国政府の一連の行動を早める結果を招いた。

昨年の林鄭政権による逃亡犯条例の導入に対抗する抗議デモは6月のとある1日に200万人もの香港市民が平和的なデモ行進を行った後は数か月に及ぶ市街地における暴動へと発展し、中国政府は屈辱的な非難を浴びることになった。それ故に、中国は香港に国家安全法を制定するためにはさらなる混乱が生じることは不可避とし、国家安全法制定を既成の事実として香港に押し付ける形で認めさせるのが混乱を最小限にする最も無難な方法と判断したようだ。

中国政府が香港に直接介入を決断するタイミングはとても重要だ。法案作りを担う 全人代の常務委員会は今年の夏の終わり頃(8月)までに法案を調整し施行できるよう任されている。 好都合なことに、このタイムテーブル通りに法案が施行されれば、中央政府に敵対する民主派が前例のない数の議席を獲得することが予想される9月の香港立法会選挙の政治的影響を最小限に抑えることができる。

香港立法会を迂回する、トップダウンのアプローチによって香港の民主派による民主的な妨害を完全に無力化することすら可能となる。そして、今回ばかりは世論は何の役にも立たない。香港のいずれの統治当局も、全人代から提案される国家安全法を撤回する権限を有していないからだ。

■香港における敵対的勢力

全人代での香港への国家安全法制度の導入する方針の採択後、中国政府および香港政府は動揺した香港の市民ならびに国際ビジネスコミュニティの鎮静化を試みなければならない。両政府は、この国家安全法はスパイ、香港独立支持者および政権転覆を企てる人物のみに対して適用されることを強調しているが、その一方で、中国政府による「政権転覆」の定義の解釈を懸念する民主派とその支持者の間で根深い不安感を生み出している。国家安全法を差し置いても、民主派の陣営はこれまでに繰り返し標的となっており、今年の4月には民主派の主要メンバー15名が逮捕された。

対照的に、歴史的には多様な意見が見受けられた香港の親中派だが、全人代での発表を受け、表面上はこれまでにない統一感を保っている。仮に異議を唱える者が存在していたとしても、公的に中国政府との結束を乱そうとする者はいないであろう。皮肉なことに、親中派はかつてないほどの仲間内の統一感を実感しながらも、中国政府の政治的後援者に比べて彼ら自身の影響力が低いことは自覚している。

これまでのところ、中国政府の発表が大物実業家を含む多くの親中派にとり寝耳に水であったという事実は報じられていない。このことは中国政府が香港で影響力を行使する際に頼りにしてきた伝統的なチャンネルに信を失い、より直接的な介入主義的なアプローチを選択したことを裏付けている。

中国政府による予期していなかった発表の後、香港の親中派の有力者たちは中国政府の先導に従い、昨年の抗議活動は米国政府が主に指揮をとった諸外国の香港干渉に刺激されて勃発したものであるとの見解への支持を表明した。諸外国による干渉に対する認識は、根深い政治的問題の解決に治安維持を強いられ四面楚歌にある香港警察の一部においても定着している。

かつて、香港で最も称賛された公的機関であった香港警察は現在、異常なまでの士気の低下に悩まされている。現場の警察官は、全人代による国家安全、治安維持の強引な推進は香港市民を警察から更に遠ざけるだけであり、抗議活動の再燃が警察の結束、士気をさらに疲弊させるだけだと感じているようだ。その一方で、政治的に中立な香港市民を直面する選択肢が次第に厳しく、緊張を伴うものとなっている。

■今夏の見通しとビジネスへの影響、そして米国の報復は

今夏の香港の大混乱は不可避である一方で、香港市民の最も効果的で民主的な方法である平和的なデモ行進は、平和的な抗議活動を苦境に追い込み、香港の反対勢力をより不利な立場に追い込むための合法的な解釈を大胆に拡大する地方政府によって妨害されるかもしれない。

香港政府がコロナウイルスによるソーシャルディスタンス(社会的距離)を保つ処置を6月初旬までに延長したことにより、これまでのところ、国家安全法に対する大規模なデモ行進の組織化は拒まれている。反対勢力を封じ込めるべく、香港政府はますます法による統治に焦点を絞ったアプローチに依存するため、集合制限令もしくは合法的な制限の更なる延長の可能性は否定できない。

結局のところ、世界中に放送されている平和的なデモ行進でさえ、中国政府の官僚による策略を覆すことはできないだろう。多数の外国政府からの批判はおろか、香港市民の世論による圧力で方針を変えるなどといった行為は面子を失うことを意味するため、中国政府にはとうてい受け入れがたい事態である。

この一週間で「一国二制度」の終焉が広く報道されてきたが、中国政府の一方的な国家安全法の押し付けによる長期的な影響について推測を述べるのは時期尚早である。中国の国家安全当局の治安機関を香港に設置可能とするなど、香港の法曹界が基本法における合法性を既に疑問視している中央政府の方針は人々に深刻な懸念を抱かせる。

報道によると、新法案は香港終審法院(最高裁に相当)に在籍する外国籍裁判官を治安に関する審理から排除することも目指している。香港の法規範の整合性への侵害に懸念は強まる一方だが、中国にとって香港は地域のビジネスハブとして基盤となっており、魅力的な存在であることは事実であり、現実主義的な中国政府がその法制度の商業的な実用性を弱体化させる可能性は低いと考えられる。

さらに、これまで国際的なビジネスの多くが香港に大規模な投資をしており、香港の商業および金融インフラは無比に中国本土へのアクセスを可能としてきた。現状の政治不信によって香港から撤退する事業者や資本の引き上げは少なからず発生するかもしれない。そうなったとしても、中国を焦点としているビジネスにとって香港の代替となる地域は他に無い。香港はその立地の恩恵で今後もビジネス上、必然的に重要な役割を果たし続けるが、「アジアの国際都市」としての輝きは色褪せるかもしれない。

香港が地域のビジネスハブとして存続するかどうかは今後、米国が中国政府の香港への国家安全法の押し付けにどう反応するかが大きく影響しよう。最近その影響力をことさら上昇させている複数の対中強硬派の政治家で構成されているトランプ政権は、既に香港の貿易上の「優遇処置」を見直す考えを示唆している。この優遇処置が廃止となれば、香港は中国本土と同様の関税や厳格な輸出管理の対象となる。ただでさえ競争の激しい海運業において、同地域で事業展開をしている米国系の輸出業者にとってこの処置は大打撃となろう。

直接的な商業への影響とは別に、香港の優遇処置の廃止は非常に象徴的な重要性を持つこととなり、顕著なテクノロジー企業を含む米国系の他事業者の当該地域における事業縮小や拠点移転を招く可能性もある。理論的には、米国による優遇処置が廃止されても香港が国際的な金融の中心地として存続することに直接的な影響はない。しかしながら、中国政府の継続的な香港への干渉に共謀しているとみなされた中国企業への大規模な制裁等、米国が示唆しているその他の措置によっては、当該地域で事業を展開する国際的な金融機関に罰金が課される可能性も今後は否定できなくなる。

米・中の両国が「新冷戦」に舵を切った今、香港は必然的に巻き込まれる形となった。米中の対立に翻弄される香港の自由。今回の強引ともいえる中国政府の香港への国家安全法の導入決定も、香港の米国への急接近を危惧し先手を打ったとも言えなくもない。香港に、昨年に続き二度目の不満に満ち溢れた予測不能な蒸し暑い夏がやって来るのは間違いないようだ。

【筆者】本田路晴(ほんだ・みちはる)
M&Aにおけるデューデリジェンス、ホワイトカラー犯罪の訴訟における証拠収集やアセットトレーシングなど調査・分析を手掛ける米調査会社Nardello & Co.の日本代表。読売新聞特派員として1997年8月から2002年7月までカンボジア・プノンペンとインドネシア・ジャカルタに駐在。その後もシンガポール、ベトナム等で暮らす。東南アジア滞在歴足掛け10年。最近は同地域に加え東アジアもウォッチ。昨年11月の香港出張では宿泊先の近くで起きた香港警察と学生のデモとの小競り合いに出くわし、催涙ガスの洗礼を浴びる。